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小間久商店の歴史(三代目楠次社長のこと) 小孫雄史
小間久商店120周年という事で、小間久商店三代目であります父楠次の事を書きたいと思います。
祖母ヒサは七人の子供を産みましたが、長男、長女、二男、三男、二女を幼く亡くし、楠次は五番目の四男として小孫家に大正10年10月16日に生まれました(育ったたのは三女の妹千代子と二人だけでした)。両親の祈りのもと、順調に成長いたしましたが、太平洋戦争がはじまり、陸軍に徴用されました。商業学校出身でしたので一兵卒での満州赴任のスタートでしたが、早く幹部候補生試験に合格し、前橋士官学校を卒業、近衛将校として終戦を迎えました。終戦時に国内にいたことで、すぐに堺へ戻り、祖父千太郎とともに商売を再開いたしました。
小間久商店の戦前の主軸商品はガラス食器でしたが、戦後復興ではたくさんの建物が建つとの判断から、板ガラスをメイン商品に据え商売を再開いたしました。当初は商品の板ガラスが思うように手に入らなくて難儀したようでしたが、苦労の甲斐あって入手ルートが出来てからは順調な商売になりました。その後の高度成長経済の流れに乗り、売上も伸び、社員数も増やしてゆきました。しかし、まだ家庭的な会社だったので、社員の呼び方も男性は「清っちゃん」「やっちゃん」女性も「みつ子ちゃん」等と呼んでいました。会社は今の翁橋にありましたが、道路から見て右側(現在のクレーン倉庫)に建つ木造の小さな店構えでした。父母夫婦と姉、私、弟との5人家族で、若い社員3〜4人が一緒に住んでいました。現在のビル(左側)が建っているところは、60坪の簡易倉庫や、シェパード犬の小屋、ブランコがあり、まだ広々とした空き地でした。当時は、ガラスの寸法も小さく、大きな倉庫スペースは必要なかった時代でした。
会社が成長する中で、父の夢は板ガラスメーカーの代理店になることでした。問屋スタイルの卸商売(仲卸)はしていたものの、板ガラス問屋と名乗って卸の商売をする為には代理店の看板が必要でした。昭和38年に日本板硝子の代理店(取引店)に昇格するのですが、その時の苦労や駆け引きでは大変な心労だったようです。代理店昇格後は、板ガラス卸商として商圏の拡大に努め、売上も順調に伸ばしてゆきました。昭和40年代に入るとアルミサッシも取扱い、多角化による業容拡大に努めました。昭和42年に念願の本社ビルを建設、今の本社の姿となりました。倉庫も天井クレーンの設備をして、大板ガラスに対応できる近代的なものになりました。社員も15人程の所帯になっていましたが、ビルの4階にはまだ住込み社員の寮がありました。営業マンは置かず、社員がお客様のところに配達に行った折に注文を聞いてくる御用聞き的なやり方でした。お得意先との間に問題が起こった時は社長か番頭さんが出向いて解決していました。
その後、昭和50年堺日軽建販(株)の設立、51年にはコンピューターを導入、業界で早く取組みに成功いたしました。54年に泉南営業所(泉佐野市市場町)開設、57年には泉南支店の現在地(泉佐野市鶴原)を購入移転と小間久商店の規模拡大に努めました。父の決断のお陰で、鶴原の600坪の土地は小間久商店の大きな財産になっています。
穏やかな人柄と真っすぐな気性で誰からも好かれ、プラス志向の夢語りの多い人でした。仕事熱心で腰が低く愛想の良い商売人。酒が好きで飲む時は本当に楽しそうに飲みました。お客様が夕方に来られるとよく飲み屋に誘い、酔えば軍隊時代(東京での近衛将校時代)のことをよく話しました。ゴルフが大好きで、きれいな伸びやかなスイングでした。歌や踊りの好きな粋な面もありました。母親(ヒサ)孝行で医者への通院等よく面倒をみてました。店の応援していた妻(喜美子)には弱かったのか?家では母の意見がよく通りました。頼まれれば重責も受諾(新日軽住建会会長、板硝子卸商業組合全国副理事長etc)する男気もありました。休みの日には建物の図面を書いたり模型をよく作っていました。
「真面目に商売していたら必ず一生に一度は大儲けができる時期がある」が口癖でした。 「その地域に根をはった商売するには土地取得が必要」が持論で、泉南支店の土地購入には、当時、所長だった私に30ヵ所以上の調査依頼がきました。
昭和59年10月、63才で、バブル景気の前に亡くなりましたが、業界の方からは大いに惜しまれました。私が35才で継承した折も、父の人柄のせいで、ずいぶん業界の皆さんから暖かい目で可愛がっていただきました。戦後の混乱期をガラス食器から板ガラスへ舵を切り、現在の小間久商店の基盤を作った父の功績は偉大です。その先見性と前向きな行動の先に現在の小間久商店があると思います。
泉南営業所も今年10月末をもって満10年を迎える事になりました。当営業所は先代社長が将来の空港開設による泉南地区発展に伴う、地元業者密着の拠点として、昭和54年10月に他社に先がけて開設されました。開設時は現社長が所長として、小森君と私、地元採用の女子事務員、それに新日軽(株)より応援の営業マン1人の計5名でスタート致しました。初年度の売上高は、1億6千万円(今年度計画3億5千万円)で予想よりも良いスタートを切る事が出来ました。
(2017年5月)